「ウィーンとそのはやり歌の関係は、ウィーンとウィンナワルツ、あるいはウィーンとウィーン音楽全般、ウィーンとその居酒屋、ウィーンとウィーン方言などと同じように、切り離せないものです。」

「ウィーンのはやり歌は、その背景に長い歴史的進化があり、その間のさまざまな出来事が今日の姿を形作りました。この進化は何世紀にもわたって遡ることができます。その進化の始まりのころに、ペストと多数の死者が影を落としましたが、時間の経過とともに、ウィーンのはやり歌はその芸術的な形を取り、世界中で独特のものとして認識されました。」

「Sieveringer Steig(ジーヴェリンガーシュタイク)とSchreiberweg(シュライバーヴェーク)の間の田園地帯の城壁の向こう側の郊外で、ウィーンのはやり歌と「ウィーン風のダンス」(器楽による前奏曲)がついに完全に実を結びました。中世の抒情詩人Walther von der Vongelweide(ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデ:1170-1230)がウィーンで「歌い、そして語る」ことができるようになった時代に種が蒔かれ、19世紀にはウィーンのはやり歌はこれまでなかったようなユニークな形で成熟していきました。」

上記の発言は、現代のウィーンの作家たちが書いたものであり、彼らはウィーンのはやり歌、つまりウィーンの名所について「歌い、語る」作品、ワインと真のウィーンっ子が全能の神(少なくとも1つのとある歌の歌詞によれば、全能の神はウィーンっ子そのものである)と親密な関係にあるということを熱狂的に、そして献身的に語っているものです。そして、Hans Hauensteein(ハンス・ハウエンシュタイン)が1976年刊の『ウィーンのはやり歌年代記』に記したように、これらの曲のすべてで、聞き手は憂鬱、苦しみ、そして死の予感、いわば「永遠の死との戯れ」のようなものを感じることができるのです。

伝説と曖昧さ

ウィーンのはやり歌を含む最初の本は、イエズス会の司祭Knächtl(クネヒトル)によって編集され、1686年に刊行されました。当時、有名なバラード歌手であり、同時にバグパイプ奏者、そして詩人である”der liebe Augustin”(愛しのアウグスティン)がウィーンの街を歩き回っていました。伝説によると、1697年のペストの年に、この派手なキャラクターの人物はペストで犠牲になった人々の死体でいっぱいになった穴に酔いつぶれて落ちてしまい、死者に囲まれて眠り、翌朝起きて陽気な歌を歌ったといいます。その話はペストで打ちひしがれたウィーンとその人々を蘇らせるに相応しい象徴であると言われています。しかし、実際にはおなじみのバグパイプのメロディーは、おそらく18世紀のものであると言われています。この時代はまた、「ハープ奏者」たちが名を馳せていた時代でもありました。ただし、彼らの曲の内容は曖昧であることが知られており、今日まで存続している名前である”Spittelberglieder”(シュピッテルベルクの歌)として知られるようになりました。シュピッテルベルクは現在はウィーンの第7地区の一部のエリアですが、当時は無一文の移民たちが住むゲットーでした。

人気の歌手と巡回音楽家

19世紀には、「ハープ奏者」は急激に減少しました。彼らは乞食となる者が多く、ハープは器楽のレパートリーでは希少なものになりました。ハープの占めていた地位は、ウィーンのはやり歌が全盛期を迎えたときに、主要な伴奏楽器としての地位を確立したバイオリンによって引き継がれました。このことについての例外としては、Moser(モーザー:1799-1863)の名前でも知られるJohann Baptist Mueller(ヨハン・バプティスト・ミューラー)でした。彼は、主に劇場で歌われていた歌から派生した、ピアノ伴奏付きのウィーンの歌から、自分自身の作品を作りました。やがてウィーンのはやり歌を歌う傑出した歌手の協会を作る必要に迫られました。そしてその協会から、ウィーンの歌の傑出した担い手が出現することになりました。その中でも特に優秀な人たちとしては、Josef Matras(ヨーゼフ・マトラス:1832-1887)とJohann Fürst(ヨハン・フュルスト:1824-1882)がいます。また、この人たちよりもさらに大きな人気を博した女性歌手もいました。このジャンルを専門とする歴史家たちは、「ウィーンの高級娼婦のうちで最も賢くて美しい女性」と言われたEmilie Tureczek(エミィー・トゥレチェク:1846-1889)を人気歌手に加えることには消極的でしたが、彼女は最も有名な人物であり、”Fiaker-milli”という馬車の御者の装いで親しまれ、ウィーンのはやり歌の歴史の中で特別な位置を占めています。

シュランメル・カルテット

1878年は、ウィーンのはやり歌、あるいはポピュラー音楽の歴史の中で覚えておくべき年でした。ヴァイオリニストであったSchrammel(シュランメル)兄弟のJohan(ヨハン)とJosef(ヨーゼフ)がトリオを立ちあげ、6年後に友人のGeorg Dänzer(ゲオルク・デンツェル:クラリネット)とAnton Strohmayer(アントン・シュトローマイヤー:コントラギター*)を含めた”Schrammel Quartet”(シュランメル・カルテット)に拡大したのは、まさにそのその年でした。カルテットはコンサートを行って海外を旅し、その名声はオーストリア・ハンガリー帝国の国境をはるかに超えて広がりました。ヨハン・シュランメルは約150曲にのぼる行進曲やワルツを作曲しました。その中には、”Wien bleibt Wien”(ウィーンはウィーン)、”Der Schwalbe Gruss”(ツバメの挨拶)、”s’Herz von an echten Weaner”(真のウィーンの心)などがあります。ウィーンのはやり歌、あるいはポピュラー音楽が最高潮に達したのは、それぞれ素晴らしい才能のある音楽家であるこれら4人の成果であり、シュランメル音楽という名前は彼らのもつ特定の演奏スタイルと密接に結びついていきます。

*19世紀中葉のウィーンで発達したダブルネックのギター。通常の6弦のフレット付きのネックに加えて、9本のベース弦のフレットレスネックがあるのが特徴である。

「シュランメルという名称は誰でもよく知っている言葉になり、ウィーンの大衆はシュランメル音楽を聞くためにこぞって集まった」と”Hans Hauenstein”(ハンス・ハウエンシュタイン)は書いています。「公の場でシュランメルカルテットと一緒に歌った芸達者なタクシー運転手などは、理想的な宣伝媒体となりました。であることが証明されました辻馬車(フィアカー)の御者は理想的な宣伝であるということを証明しました。時には、貴族のメンバーにカルテットを聞いてもらうことがありました。また、このことで貴族たちの夜会でにも呼ばれるようになりました」。こうして、シュランメル音楽はますます社会に受け入れられていきます。

オペレッタや映画の中で演奏されたウィーンのはやり歌

ウィンナオペレッタは、ハイドンとモーツァルトのミュージカルコメディーからRaimund(ライムンド)の舞台作品(歌がちりばめられたおとぎ話の戯曲)、Johan n Nestroy(ヨハン・ネストロイ)のミュージカルパロディーと茶番劇からJacques Offenbach(ジャック・オッフェンバッハ)で有名なフランスのオペレッタまでへと、その系譜をさかのぼることができる文化的現象です。ウィンナオペレッタは2つの期間に分類されます。

「黄金時代」(1860〜 1900年)

Franz von Suppé(フランツ・フォン・スッペ)、Johann Strauss Junior(ヨハン・シュトラウス二世)、Karl Millöcker(カール・ミレッカー)などが代表的作曲家です。

「第二黄金時代」(1900〜1935年頃)

Franz Lehár(フランツ・レハール)、 Oscar Straus(オスカー・シュトラウス)、Leo Fall(レオ・ファル)、Emmerich Kálmán(エメリッヒ・カールマン)などが代表的作曲家です。

ロベルト・シュトルツは、オペレッタの「第二黄金時代」の最後の偉大な作曲家であると考えられています。彼は全部で約2,000曲の歌を作曲しました。その多くは彼の50にのぼるオペレッタと100の映画音楽に含まれています。すでに長年人気のあるタイトルとしての地位を確立しているものとしては、以下のようなものがあります。

Im Prater blüh’n wieder die Bäume
(英語名:”The Woods of Vienna are Calling”)
Das ist der Frühling in Wien
(英語名:”Springtime in Vienna”)
In Wien gibt’s manch winziges Gasserl
(英語名:”In Vienna There is Many a Tiny Alley”)
Mein Liebeslied muss ein Walzer sein
(英語名:”My Song of Love”)
Wien wird schön erst bei Nacht
(英語名:”Lovely Vienna at Night”)
Vor meinem Vaterhaus steht eine Linde
(英語名:”Before my Home Stands a Linden Tree”)
Auf der Heide blüh’n die letzten Rosen
(英語名:”On the Heath the last Roses are Blooming”)

シュトルツの歌は、人類愛、情熱、愛情、勇気、浮気など人生のすべてを物語っています。 「ベルリン発祥のドイツのサウンドトラック映画の国際的な名声は、独特の魅惑的な芸術形式であるロベルト・シュトルツの歌と密接に関連しています。」とMarcel Prawy(マルセル・プローイ)は書いています。「この音楽の分野では、『1分間音楽』の天才としてシュトルツほどの才能のある人は知られていません。シュトルツの作品は、最初に聞いたときは非常に単純に聞こえるのですが、実際には非常に複雑な構造をもち、短時間に聞き手を何度も驚かせることができます。なぜなら、シュトルツの作品はしばしば並外れた予想外の方向転換をするからです。そして、これら音楽は私たちに新しい優しさと繊細さの感覚を与えてくれました。歌は大音量ではなく、フットライトから嵐や暴動を生み出すこともありませんでした。それらは静かな歌でありながらも不滅の作品となりました。ロベルト・シュトルツは、ラジオとトーキー、つまり当時の発声映画の出現を目撃しており、肉声ではなくマイクロフォンの時代が可能にするであろう囁き声による発声テクニックの到来を予測したのでした。

エピローグ
ウィーンのはやり歌は絶滅したわけではありません。それは生き続け、常に私たちと共にあります。世代が変わっても、わずかに異なる形での新しいウィーン独特の歌を作曲する創造的なアーティストが生まれるでしょう。そして、この新しいウィーン音楽の内なるニーズに歌うことで応える演奏家たちを生み出すことでしょう。

ウィーンの音楽・演劇界の逸話、ロベルト・シュトルツが語る逸話など

ヨハン・シュトラウス二世の音楽は、当時の著名な音楽家のほとんどが絶賛していました。ロベルト・シューマン、フェリックス・メンデルスゾーン、フランツ・リスト、フレデリック・ショパンはすべて「ワルツ王」を敬愛していましたし、リヒャルト・ワーグナーはヨハン・シュトラウスの音楽を「私がウィーンで聴いた中で最高のものです」と言っていました。また、偉大な交響曲作曲家であるヨハネス・ブラームスも、このヨハン・シュトラウス二世の音楽の繊細かつ陽気な雰囲気に抵抗することはできなかったようです。ある時、ブラームスは若い女性の扇子にサインを求められ、ワルツ「美しく青きドナウ」の旋律の冒頭の数小節を手で書き、次のような哀愁のある献辞を添えました:「遺憾ながら私の手によらず。Johannes Brahms」

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ヨハン・シュトラウス・二世は、ロシアでのコンサートツアーの途中に出版社のCarl Haslinger(カール・ハスリンガー)に皮肉めいた手紙を書きました。「あなたとあなたの奥様に、心からの—とはいえ、出版業のあなた様には最後のこの言葉の意味がわからないでしょうが—挨拶を送ります。敬具、ヨハン」

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1899年6月3日、ヨハン・シュトラウス二世は、妻アデーレに最後まで看取られながら亡くなりました。何年か後に、ある宮廷高官がこう語っています。「実際、フランツ・ヨーゼフ皇帝が統治していたのは、ヨハン・シュトラウスの死の時まででした」。

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1897年から1907年までウィーン宮廷歌劇場の監督を務めたグスタフ・マーラーは、世界的に有名な作曲家・指揮者であり、自分自身にも周囲の人々にも容赦なく厳しい基準を課しました。ある時、皇帝の意向を受けて、ある有力者が作曲したオペラを上演してはどうかと提案されたが、マーラーはこう答えました。「陛下のご意向に沿うのではなく、陛下のご命令に沿うだけです。私は喜んでプログラムに「フランツ・ヨーゼフ1世の命により初演」と印刷します」と答えました。結局、このオペラは上演されませんでした。

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今世紀を代表する演劇人であるマックス・ラインハルトは、1923年から1933年までウィーンのヨーゼフシュタット劇場のディレクターを務めていました。マックス・ラインハルトは、仕事に厳しく、自分なりの時間の感覚を持っていました。夜11時まで行われたリハーサルの後、彼は制作助手に向かってこう言ったといいます。「私はこれから家に帰って昼寝をする。1時に練習場のエスタライシャーホーフで会おう!」。

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1934年1月20日、ウィーン国立歌劇場で、ウィンナ・オペレッタの「第二黄金時代」を代表するフランツ・レハールのオペレッタ「ジュディッタ」が初演されたとき、いつものようにリヒャルト・タウバーがテノール役を歌いました。この時、レハールは「タウバーと私は、お互いに兄弟のようなものだ」と言っています。一方、リヒャルト・タウバーはこう言ったといいます。「レハールはオペレッタを書いていない、レハールはレハールしか書いていない」。

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1956年から1964年までウィーン国立歌劇場の芸術監督を務めたヘルベルト・フォン・カラヤンの演奏会では、舞台照明の暗さが目立っていました。1958年、カラヤンは50歳の誕生日を迎えましたが、オペラ座のスタッフは誕生日プレゼントをどうしようかと相談していました。ある年配の照明技師はこう言いました:「彼が一番喜ぶのは、黒い色のスポットライトだよ!」。

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1950年代、ウィーンのオペレッタが人気を博したのは、Johannes Heesters(ヨハネス・ヘスタース)の、年齢を感じさせない魅力に負うところが大でした。新たに改装後にオープンしたアンデアウィーン劇場でレハールの”Die lustige Witwe”(メリー・ウィドウ)に出演した彼は、このように語っています。「以前若かった頃は、黒髪に白い燕尾服でダニロを演じていました。しかし、今では白髪に黒色の燕尾服で舞台に立っていますよ」とコメントしています。

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カール・ベームは、1943年から1945年、1954年から1956年の間、ウィーン国立歌劇場の監督を務めました。1968年にはウィーン国立歌劇場の名誉会員となりましたが、彼はこの式典を機に、緊急の警告を発しました。”これまで通りオペラハウスを愛してください。しかし、あまり陰謀論に踊らされないようにしてください…”

ロベルト・シュトルツによる逸話

1905年、アン・デア・ウィーン劇場のディレクターであるカルツァーグは、フランツ・レハールの『メリー・ウィドウ』の上演を渋々承諾しました。彼はこの作品を信じておらず、「あれは音楽ではない」と言っていました。ウィーンの新聞はこの作品をズタズタに酷評して、オペレッタは死んだと力説しました。「メリー・ウィドウ」は40日間、ほとんど空席のまま上演されました。ところが、41回目の上演から500回目の上演まで、劇場のチケットが完全に売り切れてしまうという奇跡が起きました。このオペレッタの素晴らしさがウィーン中に伝わり、一般の人々が予約窓口に殺到したのです。

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1930年3月、ヨーロッパ初のサウンドトラック映画”Zwei Herzen im Dreivierteltakt”(ワルツに乗せた2人の心)の世界初演が、ベルリンのUFA宮殿”Am Zoo”で行われました。公演は大成功を収め、マスコミはロベルト・シュトルツの映画音楽が非常によくできていると評価しましたが、タイトル曲のワルツ”Two Hearts in Three-Quarter Time”は完全な誤算だったと評しました。ある新聞は、このような曲は誰の記憶にも残らないと書いたのですが、その後このワルツは世界中でヒットし、そのテキストは先進国のすべての言語に翻訳されていきました。

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1939年11月のことでした。友人の作曲家Paul Abraham(パオル・アブラハム)を介して、私はYvonne Louise Ulrich(イボンヌ・ルイーズ・ウルリッヒ)と知り合いました。この女性はみんなからEinzi(アインツィ:唯一の人)と呼ばれていましたが、このようなニックネームをつけられたのは、彼女が移民の苦難と不安にさらされているすべての人々を、言葉だけでなく行動をもって常に助けていたからでした。彼女は、助けを必要としている無数の人々に対して、その助けを拒むことのない唯一の人物、つまりドイツ語で”die einzige”でありました。私もアインツィに出会い、そして彼女に助けられました。私の問題をすべて解決した後、彼女は家族のもとに戻るためにロンドンに飛んだのでした。まさに最初の出会いの瞬間から、私はこの女性が私の人生で最も重要な役割を果たすことになると感じていました。私は毎日、ロンドンにいる彼女に手紙を書き、孤独な私を見捨てないでほしいと懇願しました。私がアメリカに移住した時、アインツィは私より30分早くニューヨークに到着し、1940年4月2日、私の新しい生活が始まりました。それ以来、私が作曲したすべてのもの、本当に完全にすべての作品は、純粋に彼女のおかげであると言わなければなりません。アインツィは単に私の人生で大きな愛とインスピレーションを与えてくれただけでなく、私の親友であり伴侶となりました。

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1941年のある日、ブロードウェイでベルリンから来た音楽家に会いました。その人によれば、その日の夜に行われるカーネギーホールでのコンサートで、指揮をするはずだったブルーノ・ワルターが急に体調を崩したために中止になったと教えてくれました。そこで、私がその夜のウィーン音楽のプログラムのコンサートを指揮することになったのです。このコンサートは大成功でした。その日から、アインツィは私のマネージャーとなり、超多忙となります。私は「ウィーンの夜」と題したコンサートプログラムを、アメリカ、メキシコ、南米の各地で、専属のオーケストラとともに演奏しました。私のプログラムは、ヨハン・シュトラウスからロベルト・シュトルツまで、ウィーンのオペレッタのレパートリーの中でも最も優れた音楽を紹介するものでした。このようにして私は、新大陸の国々にウィーン音楽の新しい熱狂的な支持者を生み出すことに成功したのでした。新聞は、「現在、戦争のためにオーストリア大使は不在であるが、ロベルト・シュトルツというウィーン音楽の立派な大使がいるのだ」と書きました。

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1945年、ロベルト・シュトルツはニューヨークから電報で祖国オーストリアの人々に宛てて次のようなメッセージを送りました。「親愛なる友よ、あなた方と話ができることを特に嬉しく思います。私が祖国を離れアメリカに来たとき、新大陸の野蛮な行進曲調の音楽を聞いて、これは私たちがいるべき世界ではないと実感しました。まるで、モーツァルトの頭に鉄製のヘルメットをかぶせ、シューベルトの腰に剣を支えるベルトを締めさせ、ヨハン・シュトラウスの首に有刺鉄線を巻きつけ、挙句の果てには「気をつけ!何かいい曲を作れ!」と命じられたような気がしました。あまりにも怪物的なひどい発想だったので、私は荷物をまとめて祖国オーストリアに向かいました…」。

マルセル・プラーヴィが語るロベルト・シュトルツについて

「ロベルト・シュトルツは、グリンツィングの別荘に座って、ウィーンの街並みの屋根を見下ろしながら、いかに素晴らしく、いかに魅力的に語っていたことか。しかし、彼の作品を構成する2,000曲の歌、50曲のオペレッタ、19曲のアイス・レヴューの作品、100曲の映画音楽について、あるいは彼の魅惑的な過去について、彼に話してもらうことは極めて困難でした。シュトルツは崇高な楽観主義者で、過去や昨日ということばは存在せず、年老いても明日のことしか考えていなかったのです。」