ウィーン音楽伝統の継承者、ローベルトシュトルツ教授
(1880年8月25日生まれ)
フランク・フィッシャー
(ハンス・シュトルツ氏提供の資料による)
彼の生涯を歌にたとえれば、それは多くの節にわかれていると云える。しかし、その各節のリフレインで歌われ、奏でられるのは、いつもオーストリア…ムール河畔の国、ノイジードラー湖、ヴォルフガング湖、ボーデン湖の畔の、そして、なによりもドナウ河の畔の国、オーストリアである。
ローベルト・シュトルツ、この、最もヴィーン的なヴィーン人が生まれたのは、実は、スラブ・マジャールと隣接した、ドイツ語圏最南の文化的中心地、グラーツであった。彼は1880年8月25日に、12人兄弟の末子として生れた。彼の生れた家のどの部屋からも、音階練習やソナタが聞こえていた… つまり、彼が音楽家になると云うこと、誇らかなシュトルツ家の頂点となると云うことは、血の宿命であり…と云っても勿論、悪しき定めではなく喜ばしき定めであったのだが…殆んど義務づけられたことと云っても良かった。
父、ヤーコブ・シュトルツは、シモン・ゼヒターとアントン・ブルックナーの教え子で、グラーツ市立劇場の音楽監督であり、後に、このシュタイアーマルク州の都に於ける公認音楽学校の主宰者兼校長となった人である。母、イダ(貴族フオン・ヴェルナイ家の出身)は、優れたコンサート・ピアニストで、夫の音楽学校で教鞭をとっていた。大伯母、テレーゼ・シュトルツはオペラ歌手で、ヴェルディ歌手として名を馳せていたし、また長年にわたってヴェルディーの友達でもあった人である。
このような芸術的、音楽的雰囲気につつまれて、ーアントン・ブルックナーやヨハネス・ブラームスもしばしばこの家の客となったー若きシェトルツは育った。そのうえ、彼には才能、勤勉、生の喜び、創造力、そして自省と云う天賦の美質が備わっていたのである。
ローベルト・シュトルツはこう語っている。「私は全てを母に負っている。母は私に豊かな愛情を注いでくれたばかりでなく、私の心の中に音楽に対する愛を目覚めさせ、ピアノの手ほどきをし、作曲家としての私の才能いちはやく認めて、想像の世界に浮ぶすべてのことを音楽に表現する術を私に教えてくれた。」
彼の経歴は人の気に入れられず辛酸をなめる天才と云ったような、よくあるパターンとはかけはなれている。時代に先行した故に同時代人の無理解にあって破滅し、死後ようやく発見されると云うような、芸術家の生涯にありがちな暗黒ドラマは彼とは無縁であった。
ローベルト・シュトルツは時代と共に歩んだ。いつも時代の先頭に立って。そして今やそれがもう30年の3倍の年月になろうとしている。つまり、三世代にわたって、彼は同時代の人々に喜びと愁い、笑いと涙を贈り続けてきたのだ。彼の書くものは本物であり真実であって、それは心から出て心へと伝わっていくものなのである。彼の生涯が古典的な悲劇ではなかったと云っても、しかし、それはなんの波潤もない生涯だったと云うことではない。われわれはここで90年にわたる文化史とも云うべき彼の生涯をいくつかの章にわけて概観してみることにしよう。
第一期(1880~1878):音楽の天才児ローベルト・シュトルツ。7才で最初の公開ピアノ演奏会開催。聴衆の中にはヨハネス・ブラームスもいて、この子供の素晴らしい前金を予言している。両親は子供の将来を考え。童話歌劇の巨匠エンゲルベルト・フンバーディンクと云う素晴らしい教師を子供につける。フンバーディンクの指導のもと、ローベルトは16才で音楽の国家試験に合格(作品「アルバムの頃」-1895年9月12日完成ーは「尊敬する先生」に捧げられている。)17才ですでに下稽古担当者としてグラーツの劇場に採用され、18才にドラウ河畔のマールブルク(今日のマリボール、スロヴェニア)に次席楽長として迎えられる。
第二期(1899~1903):ローベルト・シュトルツが、こうしてとんとん拍子で歩み始めたオペラ指揮者としての道を更に成功裎に歩みつづけることができたであろうことは、想像に難くない。しかしそこで彼はまさに宿命的とでも云うべき決定的体験をするのである。彼はヴィーンへ旅行し、ヨハン・シュトラウスが指揮する宮廷歌劇場での「こうもり」上映を体験する。それは19才の田舎町のオペラ指揮者とヴィーンオペレッタの帝王との出会いであった。
「私はそのあと、イーゲルガッセのヨハン・シュトラウス邸を訪れ、彼に会うことができた。上品な様子の二度と忘れ難い印象を与える人で、細い手はまるで耳に聞こえないメロディーのかすかな息吹きにこまかくふえているようであった。善意、穏和そして謙虚、これが級の人となりであった。それは丁度この音楽家が不滅の世界に旅立つ直前のことであった。数週間後、10万人を超える人々が温道に立ち並んで、ヴィーン中央基地の向うこの音楽家の遺体に最後の別れを告げたのである。……この「こうもり」上映体験のあと、そしてワルツの天才とのこの出会いのあとで、私にはあの言葉の真理がはっきりわかったのである。難しい音楽とかやさしい音楽とか云うものは存在しない。あるのは良い音楽と悪い音楽だけだと云うあの言葉の真理が。」
われわれが生きているこの不穏な世界、今始まったばかりの20世紀。われわれ皆が必要としているのは、善意、穏和、そして今や失われつつある世界市民性といったことがらを、思い出させてくれるあのハーモニーなのだ。古い伝統にふさわしくあろうとする者は、新しい伝統を創り出さなければならない。これが彼の考えであった。
若くしてこのような理想像をみつけることのできたローベルト・シュトルツは幸せであったと云える。そして、老いて今日、70年を経てなを、若き日の理想を保ち続けることのできるローベルト・シュトルツは、やはり幸せであると云わなければならない。彼はクラシックから陽気なミューズのもとへと方向を転換した。マールブルクに戻り、ジングシュピール第一作「大学生のいたずら」を書き…1899年のうちに舞台にのせている。
1902年、彼は首席オペレッタ指揮者として、ザルツブルク市立劇場に迎えられる。一年後、そこで、二作目のオペレッタ「可愛いローラ」が上演される。1903年はいろいろあった年で、ロシアへの「気楽な」客演旅行、母親の死、それに短期間、サーカスの楽長としてベルリンにも客演、最後にブリュン市のドイツ座に首席指揮者として迎えられる。(レオ・スレザック,イタリア客演旅行,エレオノーラ・ドーゼとの出会い。)
第三期(1904-1913):この期は「演習地の恋」とブリュン市のスター女優グレーテ・ホルムとの結婚で始まる。そして、次に全く新しい前代未聞のことがらがそれに続く。レコーディング(エジソン方式)である。出演はヴィーン宮廷歌劇場のスター、ゼルマ・タルツであった。更にクライマックス、ローベルト・シュトルツは首席指揮者としてテアター・アン・デア・ヴィーンに迎えられる。丁度この時、この劇場には信じられない程の「若い波」がうねりをあげていたのである。35才のフランス・レハールの「メリー・ウィドー」が、25才のローベルト・シュトルツの指揮のもと、世界的な大成功をおさめることになる。シュトルツはまもなく「ヴィ―ン・オペレツタ白銀期」(エメリッヒ・カルマン、レオ・ファル、オスカー・シュトラウス)のスター指揮者になる。稽古に神経を集中し、オーケストラの指揮をし、劇場の雑務に追われ、それでも尚創造の為の時間と力を彼が持っていたことは、まさに驚嘆に価する。1908年には「偉大な名前」、1909年には「ヴィ―ンの陽気な女房達」、1910年「幸福娘」(アレキサンダー・ジラルディ主演)、1911年「鉄の乙女」(ハンジ・ニーゼ主演)と云ったように次々と作品が生み出されている。
同時に、こうした仕事の合間には、シャンソンも書かれている。「セルヴス・ドウ」、「おしゃれ娘のガヴォット」など。流行歌手、寄席芸人、辻音楽師達のある世代全体が、彼のシャンソンで生きていた。それは寄席芸もまた偉大な芸術たり得ることを証明する歌の数々であった。
1913年、パイオニア・ローベルト・シュトルツは再び芸術上の新開地を開拓する。初めての映画音楽である。(ジラルディの映画「素敵なおじさん」)。トーキーが開発される15年前、映画の筋に合わせて作曲された音楽が、オーケストラによって上演中演奏されたのである。
第四期、(1914-1918):第一次世界大戦が勃発した時、ジーグムント・フロイト教授はこう云った。「私のリビドー(情熱)は、今や、オーストリア・ハンガリーだ。」
ローベルト・シュトルツは、他の言葉で、他の手段で同じことを云っている。この頃、彼は最も甘美な、最も心やさしい、最も憂愁にあふれ、慰めにみちたヴィ―ンの歌を書いているのだ。これは、脅かされ危険に晒され、飢え凍えているドナウ河畔のこの町に寄せる、歌による、音楽による愛の告白であった。「プラターに再び花咲き」、「ヴィ―ンは夜が素敵」、「ヴィ―ンの春」、「ヴィ―ン世界の恋人」等々…これらの歌だけでも、彼は全ての同胞の敬愛を愛ける資格が充分にある。祖国が危機に瀕した時初めて、表面に現れ、真価を発揮したこの愛国心こそ、実は彼の最も好ましい性格の一つなのである。
彼は「ホッホ・ウント・ドイチェマイスター」歩兵連隊に勤務し、音楽–曹長にまで昇進している。(軍務以外では、たゆみない仕事を通じて、音楽–将軍に昇進したと云って良い。)1914年、オペレッタ「いたずら小僧」、シュトットガルト宮廷劇場で初演、1915年「ショーのスター女優」、ヴィーンのローナッハー劇場(ハンス・モーザー主演)、1916年「人気者 」、ベルリンのコーミッシェ・オーパー、(あなたは心の皇帝)、「お嫁さん、キスを」、ヴィーン・ルストシュピール劇場、「百姓王女」、ミュンヘンのフォルクステアターで各々初演、更に1917年、「ずっとずっと昔の話」、ヴィーン・ルストシュピール劇場、「ただ一度の夜」、ヴィーン・カール劇場、1918年、「接吻城」、ヴィーン・ローナッハー劇場て初演と続く。 これらの作品の内のいくつはロングランとなり、連続上演750回を数えるものもあった。
第五期、(1919年ー1928年):(この期は「ドイツ語圏を超えて国際的な活躍を開始した時期」と呼ぶことができる。)ローベルト・シュトルツはフォクストロット「サロメ、オリニントの麗しき花」を書き、これが最初の汎ヨーロッパ的ヒット曲になった。また、ジャン・ギャバンがカジノ・ド・パリから全西欧に広めたヒット曲「ハロー交換手さん」を書いたのもこの時期である。しかし、同時に彼はこの時期「ヴィーンよ死することなかれ」も書いている。また、オペラ「マドンナのバラ」の仕事もこの時期である。1920年から23年にかけては、それこそ大成功の「インフレ」時代であった。オペレッタ「チップ」一つをとりあげても、ヴィーンの諸劇場で統計2000回以上の上演を数えているし、「幸せに向って踊ろう」(ヴィーン・ライムント劇場)は世界中の舞台のレパートリーになった。
「ダンスの女王」、「夏の夜」、「恋はめぐる」、なかでも、ハンス・アルベルス主演の「可愛い娘」(ベルリン座)やマックス・ハンゼン主演「あやつり人形」(ヴィーン・ビュルガーテアーター)はこの作曲家を全ヨーロッパの人気者にしたのである。
彼のこうした経歴を中断させたのは芸術家としての行きづまりではなく、経済的な失敗であった。
どの劇場も危機に瀕していた1924年、よりによってこの年、彼は説得されて、独自の企画「ローベルト・シュトルツ舞台」(ヴィーン)の興行に全財産を注ぎ込んだのである。オペレッタ「アラビアンナイトのお嬢さん」(台本、カール・ファルカッシュ)は観客に大いに受けたが、しかし、数か月後には舞台を閉じなければならなかった。ローベルト・シュトルツは20年前にヴィーンにやってきた時と同じように、貧しくヴィーンを後にした。彼はベルリンに行き、そこで「喜劇人寄席」の座付作曲家になる。1925年、彼はオペレッタ「雪の中のお伽話」をマクス・パレンベルク主演で上演。テタトロ・リリコ(ミラノ)でも彼のオペレッタ「二つのキス」が上演される。1926年にはヴィーンのビュルガーテアーターで「真夜中のワルツ」が、1927年には「ただ一度の夜」がヴィーンのカール劇場で上演、同じ頃彼の有名な「20の花の歌」も完成している。1928年にはオペレッタ「王女ティティパ」がヴィーンのカール劇場で初演されている。
第六期(1929-1938): 映画期。1929年、ローベルト・シュトルツはヨーロッパ初のトーキー「ワルツにのせた二つの心」(ヴィリーホースト、オスカー・カールヴァイス共演)の音楽を書く。このまさに世界的ヒット映画はドイツ語版のまま、ニュー・ヨークのブロードウェイで50週のロングランをつづけたのである。
1930年、ローベルト・シュトルツは「君の為のタンゴ」、「歌は終わりぬ」、「あやつり人形」、「注文通りの紳士」、「君が誰だか知りたくない」、「ヴィーンの陽気な女房達」などの映画音楽を書く。「なぜ行くのかをきかないで」、「アデュー、粋な士官さん」、「もしと云う言葉などなければいいのに」、「僕が好きなのはただ一人」等々の歌は、再びこの作曲家に国際的な名声をもたらした。ベルリンのコーミッシェ・オーパーではオペレッタ「ペッピーナ」が、ベルリンのグローセス・シァウシューピールハウスではオペレッタ「白馬帝にて」が初演された。(シュトルツの歌「世界中が空色」、「僕の好きな歌はワルツ」)
1931年、彼は「アルカディアの王子」、「モナリザの略奪」、「恋の命令」、「歌、キス、女」などの映画音楽を書き、その中から「戦友よ、僕達は若い。」、「故郷が恋しい」、「何故に微笑む、モナリザ?」、「ただ君を愛するために、永遠に生きたい。」などのヒット曲が生まれた。マルタ・エッガートとリヒヤルト・タウバーが彼の歌をレコードに吹き込んでいる。
1932年には二つのオペレッタが国際的に上演される。「スミレの花咲く頃」が、デン・ハーク、ロンドン、ブリュッセル、パリで、また、「絹を着たヴィーナス」が、チューリッヒ、ロンドン、ストックホルムで各々上演されている。さらに映画「女の夢見ること」、「大いなる愛の夜」の音楽もこの年に書かれている。
1933年、オペレッタ「失われたワルツ」がチューリッヒで初演され、ハンジ・ニーゼ主演の映画「ヴォルガング湖畔の結婚式」、ヤン・キープラ主演の「僕の心が求めるのは、いつも君だけ」が封切られている。
この頃、ドイツではアドルフ・ヒットラーが権力の座についた。ローベルト・シュトルツの親しい友人達、多くの作詞家や歌手、音楽家たちも、ヒットラーの迫害から、そして強制主要所の恐怖から例外たり得ることはできなかった。シュトルツ自身は迫害から身を守る証明書を提出することが出来た。勿論、彼の素晴しい才能の証明書だけではなんの役にもたたず、アーリア人種証明書が物を云ったのである。
1934年、彼はヴェニス映画祭で「春のパレード」の映画音楽で金賞を受賞した。ベルリン座で彼のオペレッタ「お嬢さんの迷子」が、そしてチューリッヒで「グリュッツィ」が初演されたのもこの年である。
1935年は大ヒットが続いた年で、「グリュッツィ」は「空色の夢」、「セルヴス、セルヴス」、「チャオ、チャオ」と云う名で、ドイツ、オーストリア、イタリアの舞台を征服した。また、リューマン主演の映画「地上の天国」やキープラ主演の「僕は女は皆好き」が観客を大いに魅了した。
心の底で深い悲しみをいだいていたローベルト・シュトルツは、まるでお別れの贈物のように、ドイツの民衆に二つの歌をプレゼントしている。「故郷の家にはぼだい樹があった」と「荒野に最後のバラが咲く」で、これは本当の民話になってしまった。
1936年、ロンドンでフレッド・アステア主演のミュージカル「ライズ・アンド・シャイン」が初演される。またドイツとオーストリアで「女のパラダイス」、「紙吹雪」、「最後のフィアカー」などの映画が封切られる。「キスする前に寝てはいけない」、「グラス一杯のゼクト酒で充分」などの歌はロングヒットになった。1936年末、ローベルト・シュトルツはヒットラーのドイツを去り、ヴィーンに帰る決心をする。ヴィーンに滞まることの出来た短い期間、彼は熱病のように仕事をす。フォルクスオーパーで初演された彼の最後のオペレッタの題名「世界旅行」は仲々に暗示的である。彼の最後の歌は「ドナウへの夢」という題であった。1938年、オーストリアはヒットラー軍の太鼓とラッパの伴奏のもとに崩壊する。もはやこの国には善意も穏和さも世界市民性も存在しなくなってしまう。
ローベルト・シュトルツは自由を選んだ。そしてその代償として、心から愛していた故郷を、そして数十年にわたって築きあげた安定した暮らしを捨てたのである。
彼はパリに行った。彼の場合、それは他の多くの亡命者よりは楽だったといえるかも知れない。しかし本当に楽であったわけではないだろう。結婚は破壊され、作曲家としての道は突然断ち切られてしまったのだ。そして、ウィーンからはこんな手紙が来た。「ドイツ人ローベルト・シュトルツの市民権剥奪の件…..秘密警察本部」
第七期(1939-1945):パリでローベルト・シュトルツのオペレッタ「バラライカ」と「セシセ・モア」が上演される。更に作曲依頼も来る。だがその時、第二次世界大戦が勃発する。
ヨーロッパは燃えた。セーヌの灯は消され、それと同時に、新しい土地でやっと地歩を築き始めたばかりの亡命者達の希望の灯も消されてしまった。
彼等の間でもっとも頼りにされてのは、もっと明快な頭脳と平静な精神を持ち、単に苦しみのワルツに合わせて鼓動することだけでなく、仲間の人間がかかえている問題や不安の為に鼓動することを止めない。あの黄金の心をもった一人の女性であった。
イヴォンヌ・ルイーズ・ウルリッヒ。彼女こそは助けを必要としている人々を助けることのできたデイ・アインツイゲ(唯一人の人)だった。そこで彼女は問題なくアインツイという尊称で呼ばれるようになる。
1940年初夏、ヒットラー、パリに侵入。
文字通り危機一髪のところで、ローベルト・シュトルツはアメリカ行きのヴィザと船の切符を入手することに成功する。ニューヨークでは二、三の友人と二、三の短い新聞記事が彼を暖かく迎える。「これは(11年前に)「ワルツにのせた二つの心」を書いた作曲家である。彼の古き良きウィンナワルツを思い出すのは心楽しいことである。
ローベルト・シュトルツは挫けなかった。彼は挫けると云うことを知らない男だ。
彼はハリウッドからアメリカを征服する。「スプリング・パレード」(主演ディアナ・ダービン)の映画音楽を書いた彼は、彼の歌「雲に踊ろう」で早くも1941年1月11日「オスカー」を受賞する。20000万人収容のロウソン・スタジアムでニューヨーク・フィルハーモニターが「ウィーンの一夜」と題する演奏会を開いた時のこと、病気のブルーノ・ワルターの代わりにローベルト・シュトルツがピンチヒッターにたった。彼が指揮台に登る……..そして、二時間もしないうちに、彼は昔通りの彼、つまり指揮棒で人間の心を魅了してしまうあの魔術師に戻っていた。
アメリカ全土にわたる演奏会旅行。
新しい歌も生まれた。「望卿」「神よ、わが故郷に思寵を。」「ヴィーンの涙」、これらはあまりにはっきりと、この偉大な永遠のオーストラリア人が何を考えていたかを示している。
1924年、彼はニューヨーク・メトロポリタン歌劇場で「こうもり」「ジプシー男爵」「乞食学生」を上映する。
1943年「メリー・ウィドー」。更にルネ・クレールの映画「イット・ハプンド・トモロウ」の音楽を担当。この映画音楽で、1944年に二度目のオスカー受賞。
1945年には彼のオペレッタ「シュトラウスボストンに行く」がブロードウェイで上映される。ローベルト・シュトルツは今やアメリカでも押しも押されもせぬナンバーワンの地位を獲得していた。
第八期(1946-):ローベルト・シュトルツ結婚す。イヴォンヌ・ルーイーズ・ウルリッヒが、この天才の才能ある妻となり、アインツィ・シュトルツとなる。初めての結婚ではなかったが、まさしく「二度は考えられぬような」結びつきであった。
アメリカ各州をめぐる演奏会旅行を成功裡に終えた後、この夫婦はオーストリア行きのヴィザ第一号、第二号を申請した。「飛ぶ鳥落す隆盛の国」から、なぜまた飢えて半ば壊滅したオーストリアに帰るのかと驚いて尋ねる人に、彼はなんとも純粋な答を返していいよ。「私はただ雪に埋れたミノリテン教会がみたいのだ。その為に少々苦しい暮しをしたところで、それだけの価値があるのさ。」彼は悲しさと嬉しさに心を満たしながら、貧しく、灰色になってしまった彼の町を歩きまわる。そして、愁いに満ちた歌を書く。「みな、どこえ行ってしまったのだ?」
だが人生は更に続き、仕事も更に続く。
映画音楽(「ザルツカンマーグートでのランテヴー」、「アニイ」、「タバランも一夜」「ヴィーン小曲」、ヒースターズ主演「幸せに向かって踊ろう」、「プラターに再び花咲き」、ソフィア・ローレン、モーリス・シュヴァリエ共演「ブレス・オブ・スキャンダル」、ソフィア・ローレン、マルチェロ・マストロヤンニ共演「昨日、今日、明日」、1967年モントリオール・エキスポの為の「オーストリアに恋して」)
劇場音楽(「フォアシュタットの歌」、「プラターの春」、「カサブランカの祭り」「幸せの処方」、「レインボー・スクエアー」、「アウグスティン」、「シニョリーナ」、「いつまでも愛して」、「パリの覗感」、「夢の島」、「ボーデン湖畔の結婚式」、「春のパレード」、「絹を着たヴィーナス」)
全ヨーロッパ諸国に於ける数多くの演奏会。
スター選手が歌い、最高のオーケストラが演奏した数多くのローベルト・シュトルツLP盤。
祝典記念演奏の指揮、(ドナウ・ワルツ100年記念、ユーゴースラヴィア大統領末訪記念の国立歌劇場にける「こうもり」)
「国連行進曲」や「ヴェトナムのバラード」のような作曲。
そして最後に(これもまた芸術の新領域):ローベルト・シュトルツは毎年ヴィーン・アイスレヴェーの音楽を書いた。
ローベルト・シュトルツ教授は1975年8月25日、95才の誕生日を迎える。
彼の誕生日に吾々としては何を贈るべきだろう。生涯に多くの物を贈られ、そしていつもそれ以上の物を人に贈って来た彼に?
われわれは心からの愛と感謝を彼に捧げ、今後の彼の人生に幸多からんことを祈ることにしよう。
*ローベルト・シュトルツは1975年6月27日にベルリンで亡くなりました。